無神論といふ宗敎

このごろ無神論者を標榜するものが多いのだけれども,これほど莫迦々々しい信仰者はゐない。敬虔な信仰者を誹謗し,自分は科學的合理的立場に立つてゐると,まるで葵の御紋でも持つてゐるかのやうに權威的な態度をとる。自分が絶對で正しい敎へを奉じてゐると自慢してゐるのだ。かういへば宗敎的なことはごく解りやすいと思ふ。

ぼくが气に喰はないのは,彼等が自分逹の頗る宗敎的なことを自覺しないで,自分の態度は科學的合理的なものだと考へて,ほかの信仰者を誹謗してゐるところだ。眞劍な科學的合理的觀點といふのは,萬事について懷疑的な視點であるはずであつて,さうであらばこの無神論者といふ稱は,結局自分のスタンスについての自稱にすぎないといふのに,ぼくの批難するところの無神論者は,科學的合理的といふ文言のみを盲信,崇拜して,その方法上,絶對性をもつ神を考慮しては萬事不確實となるため,方便として存在を考慮してゐないとしてゐるだけのものを,さういふ解釋が事實であると誤認してゐる,つまり神がゐるかゐないかは判らないといふ事實を鑑みてゐないため,證據がないから一旦ゐないとしてゐるといふ解釋を正しく理解できず,考慮の上に神が含まれてゐないといふ點のみに著目してこれを事實と誤認し,ゐないといふ證據もないにも拘らず實際ゐないとしてしまつてゐるのである。

問題は次の三に整理できる。まづ彼等が科學的,合理的といふ,實際一般に認められてゐる文言を用ゐて,その威を借りてゐるといふこと,二つ目に宗敎を毛嫌ひしてゐること,そして最後に宗敎的態度を理解できてをらず,却てこれに陷つてゐること,つまり自らの依つてゐる科學的合理的立場に立つてゐないことだ。一つ目の問題點は最初に譬へたやうに,彼等をさも葵の御紋を有つてゐるやうな態度として表れ,二つ目の問題點は,宗敎とこれを敬虔に信仰してゐる人々を嘲笑するといふ態度として表れ,三つ目の問題點は反論を鑑ないといふ態度として表れてくる。

かういふ態度といふのは,彼等が毛嫌ひしてゐるところの宗敎者に頗る類似してゐる。といふのも彼等は大概かう主張してゐるのである,宗敎はこれまで傳統的權威で以て,人閒の自由を阻害し,文明の發逹を停滯せしめてきたと。しかし彼等が依つてゐるのは科學的合理的視點の所産であつて,自らがさういふ態度で以て方つたわけではない,すでに形成されたものであるといふ點からすれば最早傳統的權威となつたものなのである。なほ惡質なのは,既に述べたやうに彼等は科學的合理的な態度もその所産の内容も理解してをらず,たゞ威を借るに用ゐてゐるに過ぎないところである。さうして神はゐないと得意になつて,ほかの信仰者を害ひさへするといふのは,將に人閒の自由を阻害し,神の在不在といふ不明瞭なところを明らめようとする文明の發逹を,諒解した積になつて抛棄してしまふ停滯を招く行爲ではなからうか。

さて斯る問題の解決のために最も重要なのは,信仰とは如何なるものかを正しく理解することである。萬人が宗敎的觀念を有してゐることを理解すれば,自身の態度が宗敎的なものであつて,その判り易い異端であるところの『宗敎信仰者』を誹謗してゐたといふことを理解出來る筈だからだ。しかしこれといふのは,自分の世界觀を客觀するといふ,甚だ困難な行爲である。そもそも自分の外にある宗敎といふものについては,宗敎法人といふ團體であるとか,長い歷史のうちに鍛へあげられた敎義といふ,形を伴て存在するために,取敢ず俯瞰することは頗る容易であるものの,自分の世界觀といふのは,常に自分の内側にあつて,自分で形成したものであるから,對して,疑ひなく信じ込んでしまひ,點檢するといふことに中々思ひ當らないのだ。しかしその實態を意識すると,結局これは方々から倫理觀・價値觀を集めて,釀成したものに過ぎず,深刻な問題を論ずることは出來ない代物なのである。あらゆる根據を自分に求めた世界觀は,譱惡の絶對的規定・規定者を求められないからだ。

宗敎的無神論といふものは,結局のところ,信仰を淺く見てゐるために生ずるのであると思ふ。信仰といふのは,その人閒の根本,機軸,世界觀であつて,これとよく向合つて,根據を定めることをしなければ,その觀念も亦淺薄なものに過ぎざるは,明かであらう。

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